人間失格、そして伝説へ。

どんなに純粋だった少年少女も、普通に生きていれば、神聖かまってちゃんばっかり聴いてる時期がやってくる。

外に出れなくなって、彼らの音楽にすがりつく時期というのが必ずある。

いい大人になった今でもある。

だがそれは決して励ましや慰めの歌ではない。

 

突如ネットに現れた嫌われ者のヒーローは、世間を拒絶し、否定し、革命を起こすべく暴れ回った。

ゲリラ配信、喧嘩、流血、破壊、時には放尿まで。放送事故的なそのスタンスは、現代のセックスピストルズと言われるほど、常識から逸脱したものであった。

そして当然の如く、世間からも拒絶されていった。

アナーキー、狂気的、攻撃的、電波系、精神障害、自殺願望。

メンヘラや病んでる奴が聴く音楽。

そんなイメージが強すぎて、楽曲の良さに辿り着くまでには、いくつか壁を乗り越える必要があった。

世間の理解は得られないが、いじめられっ子にとってそのヒーローの姿は、救い以外の何者でもなかった。

 

だけど俺は知っている。

実は皆かまってちゃんが好きだってことを。

おかしな奴だと思われるのが嫌で、お利口ぶってるだけだ。

心のどっかで、ずっとこういうものを望んでいる。

上部だけの綺麗事で塗り固められた、この偽りの世界に皆嫌気が差している。

それを破壊せんとする者を皆待っている。

本当は自分も壊したいと思っている。

ぶっ飛びたいと思っている。

だがそれが出来ない俗世だからこそ、彼らに惹かれる。

いけないことだと分かりつつも魅力を感じるのは、決して異常だからではない。

それが人間の本性だからだ。

 

俗に言う「かまってちゃん」というのは、誰にもかまってもらえない反動から生まれる。

「強がり」の言葉には弱さがあるように、そう在りたいのにそうでない葛藤が反動を生む。

攻撃的になるのは一種の自己防衛であり、その傍若無人な振る舞いは、己の存在証明でもある。

矛盾して見えるそれらは、俗世の至るところに存在する。

プライバシーを気にしながらも、承認欲求を満たそうとする、恥ずかしがり屋の目立ちたがり。

不愉快だと批判しながら、昼ドラ感覚で世の中の間違い探しをする裁きたがり。

死にたいと言いながら生きている死にたがり。

男の子でもなく女の子でもなく、ただ自分らしく在り続けようとするの子は言った。

 

「人は矛盾の中で生きてんだよ。矛盾の中で鳴らすものがある。それがロックンロール。矛盾なんだよ、ロックなんて!」

 

世の中の矛盾を劈くように叫ぶ、

『ロックンロールは鳴り止まないっ』

は見事世の中に革命を巻き起こした。

誤解を恐れずに言うと、この曲には、

「うるせェ!!!いこう!!!」くらい説明のいらない説得力というのがある。

この原点して頂点感。

2010年代を暗示するかのように登場したこの曲は、まさに2010年代を象徴する名曲となった。

そして、たとえ100年後でも色褪せることはないと思っている。

 

かまってちゃんの最大の魅力は、その曲の良さにある。

の子は天才的なメロディメーカーだ。

そのワードセンスとメロディのハマり方が絶妙で気持ちよく、どの曲も死にたくなるほど良い曲。

ロックとエレクトロが織り成すメランコリックな曲調。そこに漂うセンチメンタル。その中で暴れるの子の狂気性が、感情を揺さぶってくる。

『夕方のピアノ』や『天使じゃ地上じゃちっそく死』の衝動性や爆発力は、自暴自棄になった俺を何度も救ってくれた。

『夜空の虫とどこまでも』となら越えられない夜はない。

狂気的でありながらポップ、それは曲にもメンバーの人間性にも表れている。

現代を生きる若者が常日頃感じている、その憤りや息苦しさ、SNSやネット社会が巻き起こす混沌を、メルヘンに毒づいて、ニヒルな皮肉混じりに歌う。それが痛快であると同時に、刃物のような鋭さが心のモヤモヤを切り刻んでいく。

 

彼らの曲に一貫して言えるのは、

彼らはまだ「夏休み」にいるということ。

はじまりは少年の夢だった。

ずっと夢や希望がそこにはあった。

演奏技術は格段と進化して、曲の感性も詩世界もさらに深化し、バンドのクオリティも上がった。

だがその初期衝動を失わないように、の子は大人にならないようにしている。

その衝動は年齢を重ねると共に丸くなってしまう。だがそれを言い訳にはしないように、常に自分と闘っている。

だから、の子はまだ子どものままで、かまってちゃんは終わらない夏休みの中にいる。

かまってちゃんを聴くと、少年時代の記憶がノスタルジックにチラつくのは、それが理由だ。

 

それでも、かまってちゃんをよく思わない人は当然いる。

良識ある大人からしたら「何こいつ?」となるのも分かる。

綺麗なものだけ見ていたいのも分かる。

汚いものを排除したいのも分かる。

テレビとかがまさにそう。

道徳観、倫理観、コンプライアンスに縛られた社会。

だけど知ってほしい。

かまってちゃんの曲は、とても綺麗だということ。

たまに演奏もめちゃくちゃだし、ちゃんと歌わないし、mcも何言ってるかよく分かんなかったりする。だがその曲はとても綺麗なのだ。

誰もがタブー視して目を逸らすような、人間の欲望、本能を剥き出しにしての子は歌う。その本気のステージがとても綺麗に目に焼き付く。

 

そして知っておいてほしい。

必ずしも利口なだけが良いこととは限らない。

世間様の言うことを聞いて、顔色を気にしながらお行儀よくしていれば、健全で傷つかずにいられるかもしれない。

でもそれだけじゃ抑えきれない感情がある。

人間だから。

尖らないと刺さらないものがある。火をつけないと爆発しないものがあって、爆発しないと見えない光がある。

温もりだけが優しさではない。

切れ味の鋭いそのナイフは、人の心に深く突き刺さる。その鋭さゆえに傷ついてしまう人も必ずいる。

だが全員が救われる世界など存在しないように、誰も傷つかずに済む世界なども存在しない。

社会はいい加減それに気付いて綺麗事をやめるべきで、皆に好かれるような生優しいものだけを集めていけば、必ずつまらなくなる。

音楽業界がそうであるように、このままつまらなくなっていずれ消える。

どうせ消えるなら、彼らのような面白い奴らと一緒に、派手に爆発して消えてほしい。

心情を鋭角的に切り取ったその尖ったメッセージで、何度も何度も心を刺してくる。

人間の本性を曝け出し、衝動を爆発させた音楽は、人の心を突き動かす。

気付いたら泣いてたりする。

皆が皆強くいられるわけじゃない。そんな人間にとって、彼らの弱さは希望だったりする。

 

あとこれだけは、どうしても、どうしても知っておいてほしい。

「死にたいな」と歌うの子の後ろで、体を揺らしながら、笑顔でドラムを叩くみさこが、バチクソ可愛いということを。

 

だがそんなバンドもいつかは終わる。

人は必ず死ぬように、この世界のあらゆるものは必ず終わりを迎える。

 

4人はギリギリの均衡を保ってきた。

いつ崩れてもおかしくないし、いつ解散してもおかしくない危うさの中、10年以上続けてきた。

そこには計り知れない苦労があったと思う。周りの大人たちは特に。

 

の子、mono、ちばぎん、みさこの4人でかまってちゃんだったから、寂しいのは当たり前。

でもそれをとやかく言う権利はない。

ただまあ、不安ではある、正直。

それでも、かまってちゃんも、ちばぎんも、自分らしく在り続けてくれたら、それだけでいい。

 

2020.01.13

この日、『23才の夏休み』の伏線が

11年越しに回収された。

そこにいたのは、ただの少年に戻った2人。

の子がちばぎんにキラカードを返した。

それが意味するのは、ちばぎんの夏休みは終わってしまった、とういこと。

 

キラカードを背中に貼り付けた時、

4人としての夏休みは終わった。

 

それでも、神聖かまってちゃんは続いていく。

の子という主人公が死ぬまで、きっと。

 

「るーるるらーら」

 

このメロディを聴く度に思い出してしまうだろう。

波乱万丈と言うには少しおこがましいが、

どうしようもなく破茶滅茶で、グダグダで、羨ましくて愛おしい、そんな4人の夏休みを。