αとΩ

 

東京事変が再生した。

近年いろんなバンドが復活を遂げている。

イエモン 、ハイスタ、エルレナンバーガール、そして東京事変

こんなこと起きるんだな。

もうこれ以上驚くには、オアシスの再結成しかないかな。

あの兄弟が仲直りするとは思えないけど。

それに比べてジョシュはいい奴だよ。

 

ちなみにだが、DOESも復活したことを声を大にして言いたい。

そうなってくると、再始動してほしいバンドはたくさんある。

スーパーカーとか、きのこ帝国とか、ふくろうずとか、plentyとか、uremaとか、あとやっぱ、心のどっかでthe cabsを望んでる。

オストライヒを新木場で見たけど、やっぱり

高橋國光はすごいぞ。鬼才だよ。

でもまあ、それは勝手なエゴ。

バンドの事情に他人がどうこう言う権利はない。

それはそうとptp、フェスでどうやるんだろ。

Kの意志を継いだバンドばっかり出るから、ボーカル変えつつやったりするんかな。でもそこにはJESSEもいなきゃな、ってどうしても思ってしまう。

 

復活したからいいと言うわけではない。

最初は思い出補正こそあるが、難しいのはそこから。

映画の2作目や、ドラマのシーズン2があんまり面白くなかったりするように、

思い出に引っ張られて、昔の方がよかった、となりがちなのである。

初期の方がよかったとか、何枚目を出した頃が一番よかったとか、メンバーが変わるまではよかったとか、それっぽいこと知ったふうに言う奴いるでしょ。

せっかく綺麗に終わったんだから、その綺麗な思い出のままいさせてくれ、という人もいる。

もちろん待ち望んでいる人もいる。

だから難しいのはこれからで、過去の評価が高ければ高いほど、そのハードルもまた高くなる。

それでも、日本を代表するバンドたちだ。

期待するには充分すぎる。

 

そんなクラスのバンドが復活なんてした日には、世の中はパニック状態になるわけで。

ファンが物凄い騒ぐもんだから、全然知らなかった人たちも、物珍しさに何だ何だと寄ってきて、ネット上がそれだけでパンクしたりする。

そのくらい存在感と影響力があるってこと。

エルレは世代だけあって興奮した。

はじめ理解ができなかった。

ELLEGARDENっていう文字すら目に映ってるのに見えなくて、

へー、MONOEYESツアーやるんだ、って思ってよく見たら、トディじゃなくてウブちゃんだし、全く理解が追いつかなかった。

予想だにしないことがいきなり起きると、人間こうなるんだと思った。

夢なんじゃないかと何度も確かめた。

ライブでの復活だったから、チケットの倍率はエグいことになってた。きっと今でもすごい。

あの日幕張で見れたのは奇跡だ。

約束のSupernovaが始まった瞬間、

もう死んでもいいと思った。

そのくらいバンドはすごいんだ。

 

はじまるバンドがいれば終わるバンドもいるわけで。

その繰り返しを今まさに見ているわけで。

バンドは生き物だから、いつどうなるか分からない。

いつ死ぬか分からない。

だから、行けるライブは行っといた方がいい。

見られるうちに見といた方がいい。

絶対後悔する。後悔してる。

そのアルバムをリピートする度に、後悔の念が押し寄せてくる。

だから見たいライブがあるなら、無理してでも行った方がいい。

人生幸せでも不幸でも、

成功しても失敗しても、

どっちにしろ、自分もどうせいつか死ぬんだから、

生きてるうちくらいは、好きなことしといた方がいい。

好きなものにだけは嘘ついちゃいけない。

好きな音楽聴きながら死ねたら、幸せだろうな。

 

はやく死にたいな。

 

We are Fighting Dreamers

 

オリンピックが無事に開催されて、大成功で幕を閉じる、という想像が1ミリもできないのは私だけだろうか。

熱中症でバッタバタ倒れるだろうし、交通機関は麻痺してパニックになるだろうし。

ウィルスだっていつ収束するか分からない。

混乱に乗じて海外から工作員が大量に入ってくるかもしれない。

地震が起きるかもしれないし、台風が来るかもしれない。富士山が噴火するかもしれないし、テロが起こるかもしれない。

そうなっても、ざまぁとしか思わないけど。

莫大な予算かけてるのに整備も対策もガバガバ。

ルールも規定も定まってない。

競技場は負の遺産まっしぐら。

わざとやってるとしか思えない。

委員会はボランティアのことを奴隷としか見てないし、観客どころか選手のことすらどうでもいいと思ってる。

選手ファーストって言ってなかった?

ダンボールのベッドって何?

ダンボールで寝たことないだろ。

体中が寝違えたみたいになるんだよ。

復興五輪とか言いながら、復興という言葉はただのイメージ戦略であって、中身はただの金儲けの話。

いやあ、素晴らしい国ですね。

やっぱり頭がいい人の考えは違いますよ。

凡人には理解できないんでしょうね。

それにあれ。日本中をおかしくしたあの言葉。

おもてなし

いやあ、もてなされてえ。

海外の方はいいね。満を持して、練りに練り込まれたおもてなしを受けられるわけだから。

驚くだろうなあ。

災害級の暑さの中、アサガオでもてなされるなんて誰も思ってないだろうなあ。

いやあ、すげえ。やっぱり常人には理解できない。

アサガオで涼んでみたいなあ。

アサガオを過小評価してた。

凡人なりに考えてみた。

いい大人が何人もいて、アサガオで視覚的に涼しくしよう、などという案が何故通ったのか。

予算的な問題、というのはカバーストーリー。

そこにはやはり、日本人ならではの精神性が隠れている。

2019年から徐々にスピリチュアル的な時代になってきた。

物質世界が発展していくとともに、人間の精神もまた進化させなくてはならない。

精神テクノロジー文明において、人間はより精神を高め、高次元の存在に近づく必要がある。

そのはじまりの国は、やはり日本。

そう考えて、辿り着いた答えがアサガオ

アサガオを見て涼しくなれるような精神でないと、この先生きてはいけない。

そのための洗脳実験のひとつ。

 

オリンピックという競技すらフェイク。

真の目的は人間の忍耐力、耐久性を測るための我慢大会。

人間はどのラインまで耐えることが出来て、首都がパニックになるとどうなるのか。そのデータを取るための実験。

敗戦の後もまだ戦争は続いている。

100年計画のひとつに過ぎない。

今もまだモニター国として利用されている。

 

そのために長年培われてきた日本人の能力。

良くも悪くも日本人は精神論が大好き。

我慢や忍耐はステータス。それが美徳の日本。

そう作られてきた。

そして失ってきた。

オリンピックにおけるどの案も対策も結局は精神論。

 

だったらもういっそのこと、競技も我慢大会にすればいい。

そしたら勝てるよ、日本は。

常に我慢大会してるんだから。

何時間残業できるかとか、休みなしに何日働けるかとか、どのくらい寝ずにいられるかとか。

こんなに頑張ってるのに、何で生産性は低いんだろう?何で皆それを仕方ないと思ってるんだろう?何でおかしいと思わないんだろう?

答えは簡単。

自分が我慢すればいい、そう教えられて育ってきたから。

我慢できない奴は悪。

嫌なら出てけ。までがテンプレ。

 

それはさておき、じゃあオリンピック用に競技も作っちゃえばいい。

例えば、電車シャトルランとか。

超満員の田園都市線に乗って何往復耐えられるか、とか。

喧嘩になったら失格、変な奴に耐えられなくて途中で降りたら失格、とか。

上京するまで知らなかったんだけど、都会の人って、別に電車が好きなわけじゃないんだね。

みんな電車がすげえ好きなんだと思ってた。

ホームとかすごい行列できるし、我先にってギュウギュウになるまで乗るし、椅子取りゲームもするし、ドア横死守するガーディアンもいるし、みんな好きなんだねえ、って思ってた。

でも違うんだね。都心で働くのがステータスだから、仕方なく電車に乗るしかないんだね。

大変なんですね。すみませんでした。

 

でも、我慢強い日本の悪いところは、すぐ不幸自慢になること。

不幸自慢大会になったら世界には勝てない。

我慢は出来るけどそのストレスの捌け口がないから、不幸自慢になったり、しょうもない言い争いをしたり。

ここから言えるのは、日本人は精神論は好きで、我慢も出来るけど、決して精神性が高いわけではないということ。

むしろ低い。

我慢も間違った我慢だからストレスだけが溜まり、精神の向上などに繋がるわけもなく、ただただ病んでくだけ。

これまで同調圧力、集団心理でどうにかこうにか誤魔化してきたが、このオリンピックで世界に露呈するだろう。

 

おもてなしなんか誰もしようと思わない。

おもてなしの精神なんか誰も持っていない。

それを掲げて推奨する奴らは、ただ儲かるために利用するツールとしか思ってない。

営業スマイルと変わらない。

偽物だ。

だが、それで良いと言うのだから良いのだろう。

所詮は資本主義に縛られた世の中なのだから、何をするにも金が1番偉い。

 

頑張ってチケット当てて観戦できても、必ず不満を爆発させる。

何やっても不満を言う奴は言うけど、今回は簡単にそれが予想できる。

そんなグダグタな中でも、選手たちは今も努力している。

4年に1度の祭典に向けて、何年も努力を続けている。

彼らはどんな環境でも、どんな状況でも、決められたルールの上で全力を発揮するだろう。

プロだから。

だから我々も、決められたルールの上で彼らを全力で応援しなければならない。

我々に出来ることはひとつ。

オリンピックまでに、アサガオで涼める精神性を身につけることだ。

今こそ瞑想や禅、またはヨガでチャクラを練り上げ、第3の目、松果体を活性化させ、己を高次元の存在に高める必要がある。

そうすることで無駄な争いはなくなり、オリンピックも成功するどころか、ナルト走りが種目として認められることにもなるだろう。

オリンピックはそのための試練だ。

気付け日本人。

いい加減目を覚ませ。

気付いた人はもう動き出している。

知らんけど。

 

熱き決闘者たち

 

小さい頃、カードバトルが流行っていた。

俺も集めるのに夢中になっていた。

でも集めるだけで自己満足していた。

遊ぶ友達いなかったから。

 

近年、そんなカードバトルが再燃しているらしい。

それはなんとスマホのアプリで出来るそうだ。

しかも自分でカードが作れて、いつでもどこでも、世界中のプレイヤーとオンライン対戦ができるというのだ。

すごい時代だ。

何でもカードに出来るらしい。

料理でも服でもペットでも風景でも、

写真を撮れば、何だって自分の手札にできるそうだ。

自分をカードにする人もいるんだとか。

すごいね。

その自分だけのカードでデッキを組んで、

いざデュエルスタンバイ!

なんかルールが変わってて難しいんだけど、

簡単に言うと、

フィールドに召喚したカードは、各プレイヤーから評価ってのを貰えるんだって。

その貰えた評価数が多いやつの勝ちってことらしい。

しかも手札のカードは、自分で攻撃力が弄れるんだって。

そうなったら何でもありじゃんね。

でもトラップカードってのもちゃんとあって、

そのカードをフィールドに出すと、評価を貰えるどころか、各プレイヤーから総攻撃を受けるらしい。

滅びのバーストストリーマーって言うんだって。

なんかその効果を逆に利用するやつもいたりして、めちゃくちゃ心理戦なんだって。

ハマる人は毎日その研究と鍛錬に勤しんでるんだって。

しかも驚きなのが、子どもに流行ってるんじゃなくて、大人に流行ってるらしい。

さらに、プレイヤーの数は男性よりも女性の方が多いんだって。

カードバトルなんか少年の遊びだったから意外だよね。

時代は変わるなあ。

でも時代は変わっても、結局はみんなデュエリストなんだね。

うわあ、面白そうだなあ。やってみたいなあ。

でもこれからとか今更感あって恥ずかしいよね。

それに世界中のプレイヤーが相手とか、すぐにサレンダーしちゃいそうだし。

そんなのいちいち気にしてたらダメだって?

そうだよね。何でも始めてみることが肝心だよね。

じゃあせっかくだから、まだやったことない人も一緒に始めてみよう。

さぁ、デュエルスタンバイ!

 

DITTOルーパーが欲しい。

時間の流れは存在していない。

過去現在未来は一直線ではない。

ドリームタイム、ブロック宇宙論

そんな説は腐るほどある。

何が真実かなど人間には解明出来ないだろう。

人間に理解できる概念ではないと思う。

人間が人間自らを理解できてもいないのに、時間や宇宙などと言った高次元の概念を理解できるはずもない。

 

とは言ったが、そこにこそロマンがある。

人智を超えたものにこそ探究心は芽生える。

その謎を解明すべく、日々研究を重ねる科学者たちは尊敬に値する。

 

時間は揺らいだ点であり、無意識が選び取って移動している。

またはある区間をループしている。

はたまた5分前仮説。いろんな説がある。

科学的なものからオカルトまで。

 

ループというものを日常から考えてみる。

ループと言っても、人の精神、意識のループである。

毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じ仕事をして、同じ電車で帰る。

こんな生活を続けていれば、人生はループしているようにも感じる。

だがそれには、忘れるというタイミングが必要になる。

人間にはそのタイミングがある。

その瞬間に記憶をリセットされ、またそこから同じ時間をループする。

 

例えば、レジで値段を聞いてからバッグから財布を出す。そしてお金を払ったら財布をしまう。お釣りを貰う時にまた財布を取り出す奴。

こいつはこのタイミングで記憶がリセットされ、ここからループしている。

その後遺症で、金を払うこと、お釣りを貰うことすら忘れてしまう。

 

また、改札の目の前まで来てからパスモを探し出す奴。

こいつはこのタイミングでループしている。その後遺症で、なぜ改札の前にいるのか、なぜパスモが必要なのかを一瞬忘れてしまう。

 

あとは、エスカレーターを降りた直後に立ち止まる奴。

なぜここにいるのかも一瞬忘れてしまう。

 

人混みで急に立ち止まったり、周りを見ずに振り返ってくる奴らも、そのタイミングでループにかけられている。

 

そうでないと奴らの行動に説明がつかない。

そのくらいの大きな力が働いてないとおかしい。あり得ない。

こんな不可思議で不可解な現象が、当たり前のように身の回りで起きている。

 

他にもふとしたこと、シャンプーしたかどうか忘れてしまう時、家の鍵を閉めたか忘れてしまう時、急に好きだったものの興味が無くなった時、その瞬間から人はループしている。

 

そしておそらく長くても1年単位でループしている。

毎年雪が降る度に騒ぎ立てたり、八王子駅を映したり。

わざと忘れているにしては滑稽すぎる。

あれは毎年雪が降るという現象を明らかにリセットされている証拠だ。

学習能力がないのではない、強制的に記憶から消されているのだ。

 

季節もそうだ。3月は寒いこと、5月くらいまで寒いこと、夏は猛暑、台風が来ること、地震は起きること、すべてリセットされている。

毎年出る10年に一度のワインもそう。

 

でないと説明がつかない。

忘れるわけがない。

同じ過ちを何度も繰り返すわけがない。

そこまで人間は馬鹿じゃない。

 

デジャブはパラレルワールドの記憶ではなく、ループする前に見た実際の記憶。

ジャメビュは記憶がリセットされた証拠。

 

夢は集合的無意識による記憶の調整。

マンデラエフェクトはその際に起こる記憶のズレ。

 

ではなぜ身体は成長するのか。

肉体と精神は別々に考える必要がある。

肉体は食べることにより成長する。成長とは老化であり、栄養を摂るごとに日々、肉体の機能停止、すなわち死に向かって老化していく。

日付などは人間が作り出したただの数字に過ぎない。

そもそも人間の五感は脳で感じ取った電気信号。

目に映る景色も自分の顔も、脳が映し出した映像に過ぎない。

すべて錯覚である可能性もゼロではない。

この世界も0と1の世界であり、その電気信号によってループしているかもしれない。

シミュレーション仮説も間違いではないかもしれない。

果たして、今はいったい何周目の今日なのか。

あの名探偵や磯野家の世界はあながちフィクションではないのかもしれない。

 

 

あほくさ。

 

 

滅びのバーストストリーマー

隣の国でアウトブレイクが起こり、

オーストラリアは山火事に洪水、

中東は今もまだ緊張状態、

世界中で地震や噴火、異常気象が相次ぐ。

異常気象という言葉を毎年耳にする。

異常が続けば、それもいずれ異常ではなくなる。

毎年のように地震が起こり、台風が来て、水害に襲われる。

テロ対象国であり、いつWWⅢが起こってもおかしくない。

それでも尚、平和ボケした民族は自分は大丈夫だと思い込んでいる。

正常性バイアスという異常。

暖冬の後には大きな地震がやってくる。

3.11と同じ兆候があると有識者が訴えても、

世間様の興味は芸能人のスキャンダル。

永田町はまだ茶番をやっている。

いつもそう。

事が起きてから騒ぎ出す。

地震が起きてから、水害が起きてから、

そしてパンデミックが起きてから、テロが起きてから、国を乗っ取られてから、てんやわんやに騒ぎ立てる。

改札の目の前に来てバッグからパスモを探し出すのと変わりない。

それじゃもう遅い。

そして自分が被った不幸を誰かのせいにし、その責任の押し付け合いが始まる。

これを異常だとは誰も思わない。

もう日常になっているからだ。

人間は非常に都合が良く、都合の良いことしか信じられない。

科学、宗教、金。自分に都合が良ければ何でもいい。

そのエゴこそが人間らしさであるかのように。

そのため気付くのはいつも失ってから。

憐れな生き物だという自覚すらない。

 

すべての戦争が陰謀によって起こるわけではない。

戦争は人の性でもある。

いじめがなくならないように、戦争もなくなることはない。

歴史がそれを証明している。

だが、仕組まれた戦争というのも存在し、地震も台風も、そしてウィルスも人工的に仕組まれているかもしれない。

そんな都市伝説も陰謀論も腐るほど広まっているが、

もし仮に、昨今の異常気象や新型ウィルスが自然的な発生であったら、それは異常でも何でもなく、むしろ正常なものだと思う。

環境を破壊し続ける人間に地球は怒っている。

地球という生命体にとって、環境を破壊する人間は害虫、ウィルスに他ならない。

ならばそれを排除しようとするのはごく自然な働きだ。

異常だというのは人間のエゴでしかない。

今更共存などと言うのも図々しい話だ。

人間は自然の脅威には敵わない。

地球が人間を滅ぼそうとしているならば、人間は淘汰されるべきだ。

地球にとって必要であるならば、生き残るだろうし、また生まれてくるだろう。

スクラップアンドビルドで発展してきたんだろ?

だったらもうそろそろ破壊されるべきだ。

人間は腐りすぎた。

人間のために地球があるわけではない。

履き違えてはいけない。

異常なのは人間だ。

そして地球はどこか急いでいるようにも感じる。

何を止めようとしているのか。

人間はあと何年ここに居られるのか。

 

それとも全て誰かの陰謀なのか。

コロナに注目させて裏で何をやっているのか。

コロナよりもインフルの方が猛威を振るっているがあまり報道されない。

イギリスのEU離脱も目の前。

異常気象は本当に自然なのか。

全てがひとつの方向に向かっている。

 

そんな妄想。

くだらねえ。

人間失格、そして伝説へ。

どんなに純粋だった少年少女も、普通に生きていれば、神聖かまってちゃんばっかり聴いてる時期がやってくる。

外に出れなくなって、彼らの音楽にすがりつく時期というのが必ずある。

いい大人になった今でもある。

だがそれは決して励ましや慰めの歌ではない。

 

突如ネットに現れた嫌われ者のヒーローは、世間を拒絶し、否定し、革命を起こすべく暴れ回った。

ゲリラ配信、喧嘩、流血、破壊、時には放尿まで。放送事故的なそのスタンスは、現代のセックスピストルズと言われるほど、常識から逸脱したものであった。

そして当然の如く、世間からも拒絶されていった。

アナーキー、狂気的、攻撃的、電波系、精神障害、自殺願望。

メンヘラや病んでる奴が聴く音楽。

そんなイメージが強すぎて、楽曲の良さに辿り着くまでには、いくつか壁を乗り越える必要があった。

世間の理解は得られないが、いじめられっ子にとってそのヒーローの姿は、救い以外の何者でもなかった。

 

だけど俺は知っている。

実は皆かまってちゃんが好きだってことを。

おかしな奴だと思われるのが嫌で、お利口ぶってるだけだ。

心のどっかで、ずっとこういうものを望んでいる。

上部だけの綺麗事で塗り固められた、この偽りの世界に皆嫌気が差している。

それを破壊せんとする者を皆待っている。

本当は自分も壊したいと思っている。

ぶっ飛びたいと思っている。

だがそれが出来ない俗世だからこそ、彼らに惹かれる。

いけないことだと分かりつつも魅力を感じるのは、決して異常だからではない。

それが人間の本性だからだ。

 

俗に言う「かまってちゃん」というのは、誰にもかまってもらえない反動から生まれる。

「強がり」の言葉には弱さがあるように、そう在りたいのにそうでない葛藤が反動を生む。

攻撃的になるのは一種の自己防衛であり、その傍若無人な振る舞いは、己の存在証明でもある。

矛盾して見えるそれらは、俗世の至るところに存在する。

プライバシーを気にしながらも、承認欲求を満たそうとする、恥ずかしがり屋の目立ちたがり。

不愉快だと批判しながら、昼ドラ感覚で世の中の間違い探しをする裁きたがり。

死にたいと言いながら生きている死にたがり。

男の子でもなく女の子でもなく、ただ自分らしく在り続けようとするの子は言った。

 

「人は矛盾の中で生きてんだよ。矛盾の中で鳴らすものがある。それがロックンロール。矛盾なんだよ、ロックなんて!」

 

世の中の矛盾を劈くように叫ぶ、

『ロックンロールは鳴り止まないっ』

は見事世の中に革命を巻き起こした。

誤解を恐れずに言うと、この曲には、

「うるせェ!!!いこう!!!」くらい説明のいらない説得力というのがある。

この原点して頂点感。

2010年代を暗示するかのように登場したこの曲は、まさに2010年代を象徴する名曲となった。

そして、たとえ100年後でも色褪せることはないと思っている。

 

かまってちゃんの最大の魅力は、その曲の良さにある。

の子は天才的なメロディメーカーだ。

そのワードセンスとメロディのハマり方が絶妙で気持ちよく、どの曲も死にたくなるほど良い曲。

ロックとエレクトロが織り成すメランコリックな曲調。そこに漂うセンチメンタル。その中で暴れるの子の狂気性が、感情を揺さぶってくる。

『夕方のピアノ』や『天使じゃ地上じゃちっそく死』の衝動性や爆発力は、自暴自棄になった俺を何度も救ってくれた。

『夜空の虫とどこまでも』となら越えられない夜はない。

狂気的でありながらポップ、それは曲にもメンバーの人間性にも表れている。

現代を生きる若者が常日頃感じている、その憤りや息苦しさ、SNSやネット社会が巻き起こす混沌を、メルヘンに毒づいて、ニヒルな皮肉混じりに歌う。それが痛快であると同時に、刃物のような鋭さが心のモヤモヤを切り刻んでいく。

 

彼らの曲に一貫して言えるのは、

彼らはまだ「夏休み」にいるということ。

はじまりは少年の夢だった。

ずっと夢や希望がそこにはあった。

演奏技術は格段と進化して、曲の感性も詩世界もさらに深化し、バンドのクオリティも上がった。

だがその初期衝動を失わないように、の子は大人にならないようにしている。

その衝動は年齢を重ねると共に丸くなってしまう。だがそれを言い訳にはしないように、常に自分と闘っている。

だから、の子はまだ子どものままで、かまってちゃんは終わらない夏休みの中にいる。

かまってちゃんを聴くと、少年時代の記憶がノスタルジックにチラつくのは、それが理由だ。

 

それでも、かまってちゃんをよく思わない人は当然いる。

良識ある大人からしたら「何こいつ?」となるのも分かる。

綺麗なものだけ見ていたいのも分かる。

汚いものを排除したいのも分かる。

テレビとかがまさにそう。

道徳観、倫理観、コンプライアンスに縛られた社会。

だけど知ってほしい。

かまってちゃんの曲は、とても綺麗だということ。

たまに演奏もめちゃくちゃだし、ちゃんと歌わないし、mcも何言ってるかよく分かんなかったりする。だがその曲はとても綺麗なのだ。

誰もがタブー視して目を逸らすような、人間の欲望、本能を剥き出しにしての子は歌う。その本気のステージがとても綺麗に目に焼き付く。

 

そして知っておいてほしい。

必ずしも利口なだけが良いこととは限らない。

世間様の言うことを聞いて、顔色を気にしながらお行儀よくしていれば、健全で傷つかずにいられるかもしれない。

でもそれだけじゃ抑えきれない感情がある。

人間だから。

尖らないと刺さらないものがある。火をつけないと爆発しないものがあって、爆発しないと見えない光がある。

温もりだけが優しさではない。

切れ味の鋭いそのナイフは、人の心に深く突き刺さる。その鋭さゆえに傷ついてしまう人も必ずいる。

だが全員が救われる世界など存在しないように、誰も傷つかずに済む世界なども存在しない。

社会はいい加減それに気付いて綺麗事をやめるべきで、皆に好かれるような生優しいものだけを集めていけば、必ずつまらなくなる。

音楽業界がそうであるように、このままつまらなくなっていずれ消える。

どうせ消えるなら、彼らのような面白い奴らと一緒に、派手に爆発して消えてほしい。

心情を鋭角的に切り取ったその尖ったメッセージで、何度も何度も心を刺してくる。

人間の本性を曝け出し、衝動を爆発させた音楽は、人の心を突き動かす。

気付いたら泣いてたりする。

皆が皆強くいられるわけじゃない。そんな人間にとって、彼らの弱さは希望だったりする。

 

あとこれだけは、どうしても、どうしても知っておいてほしい。

「死にたいな」と歌うの子の後ろで、体を揺らしながら、笑顔でドラムを叩くみさこが、バチクソ可愛いということを。

 

だがそんなバンドもいつかは終わる。

人は必ず死ぬように、この世界のあらゆるものは必ず終わりを迎える。

 

4人はギリギリの均衡を保ってきた。

いつ崩れてもおかしくないし、いつ解散してもおかしくない危うさの中、10年以上続けてきた。

そこには計り知れない苦労があったと思う。周りの大人たちは特に。

 

の子、mono、ちばぎん、みさこの4人でかまってちゃんだったから、寂しいのは当たり前。

でもそれをとやかく言う権利はない。

ただまあ、不安ではある、正直。

それでも、かまってちゃんも、ちばぎんも、自分らしく在り続けてくれたら、それだけでいい。

 

2020.01.13

この日、『23才の夏休み』の伏線が

11年越しに回収された。

そこにいたのは、ただの少年に戻った2人。

の子がちばぎんにキラカードを返した。

それが意味するのは、ちばぎんの夏休みは終わってしまった、とういこと。

 

キラカードを背中に貼り付けた時、

4人としての夏休みは終わった。

 

それでも、神聖かまってちゃんは続いていく。

の子という主人公が死ぬまで、きっと。

 

「るーるるらーら」

 

このメロディを聴く度に思い出してしまうだろう。

波乱万丈と言うには少しおこがましいが、

どうしようもなく破茶滅茶で、グダグダで、羨ましくて愛おしい、そんな4人の夏休みを。

 

in the dusk

 

オルタナティヴ

 

その定義は今や曖昧で、ジャンルを指している言葉なのかすら分からなくなってきた。

ニルヴァーナ以降、という言葉があるように、その時代を象徴するバンドに付随して、オルタナティヴ・ロックの定義も変わってきた。

 

邦ロックにおけるオルタナティヴとは何か。

日本のオルタナと言われて、間違いなく名前が挙がるのは、NUMBER GIRLだろう。

 

オルタナティヴといえばナンバーガール

ナンバーガールといえばオルタナティヴ、

というくらい確固たる地位を築いた。

日本でも、ナンバーガール以降、という言われ方をするくらい、オルタナの定義に影響を与えた。

それ以降に出てきたオルタナを称するバンドは、ほとんどナンバーガールの系譜にあると言っていい。

テレキャス或いはジャズマスがジャキジャキしていて、ベースがゴリゴリではなくブリブリしていて、ドラムがよく分からんかったら、それは間違いなくナンバーガールの影響を受けている。

変則的なリズムで、気まぐれのような曲展開なくせに、アルペジオがやたら綺麗だったら、それはナンバーガールの影響を受けまくっている。

そのくらいカッコいい音楽なのだ。

大衆ウケを気にしないそのオルタナ精神もさることながら、己を突き詰めた果てに見出した、世の真理というものが、その音楽性に詰め込まれている。

中毒性が高く、ハマる人はその沼にどんどん溺れていく。

歌詞にも描かれる少女の物語は、時を越えて次々に伝染していく。

 

そんなナンバーガールも、世代ではない。

好きなバンドを遡って辿り着いた原点だ。

原点にして頂点とはこのことかと思った。

オルタナというものを知ったのは、

ART-SCHOOLから。

あのダウナーな感じがたまらなく心地よかった。

古いフランス映画のような詩世界。

儚くも冷たい空気感に冬の匂いがする。

りっきーの気弱さもそのエッセンスとなる。

音出しの手癖も、エフェクターの試奏も、

スカーレットのイントロを弾いてしまう。

どうしようもなくムシャクシャした時も、

あのコードをひたすら掻き鳴らす。

夜に聴きたいバンドはたくさんいるが、

朝に聴きたいバンドはあまりいない。

アートスクールは夜でもいいけど、朝にこそ聴きたい。

ロリータキルズミーとかウィノナライダーアンドロイドとか。

朝に聴きたいバンドは、他にもtoeとかハイスイノナサとかthe cabsとか。

まあ精神状態ではいつでも聴くんだけど。

そのダウナー系あたりで出会ったのが、

Syrup 16gだったりdownyだったり。

だけど当初は少し難しかった。

 

そして時が経って、きのこ帝国に出会う。

女性ボーカルのバンドで、こういう音楽ってのが新鮮だった。

ナンバーガールの系譜でいうところのオルタナを踏襲しているし、そこにドリームポップやシューゲイザーが入ってくる。

好きな要素しかないから、ハマるには時間は必要なかった。

高校生の頃にスクールフィクションを聴いていたら、不登校にならずに済んだかもしれない。

ラスサビ前の、ギター1本で掻き鳴らすあのコードと音だけで、俺の日常は変わっていたかもしれない。

田舎だったし、渦になるがリリースされたのが卒業した後だったから、どっちにしろ無理だったけど。

そんなきのこ帝国も、惜しくも活動休止してしまった。

千亜妃さんのソロも凄くいいんだけど、やっぱりどこかでノイズを求めてる。あの歪んだギターサウンドが欲しくなる。

 

そこで最近出会ったのが、クレナズムというバンド。

福岡は本当いいバンドばっかり生む。

なんで?福岡にはどんな仕組みがあるのだ。

そういう意味では、福岡と北海道は日本でも稀有な場所。

もうシューゲイザーなんかやるバンドはいなくなって、このまま絶滅するのかと思ってた。

いた。福岡に。福岡やっぱすげえ。

オルタナなんだけど浮遊感があって、サウンドのきめの細かさが絶妙。

ギターに関して言えば、アルペジオを弾いた時にはじける音の粒がかなり綺麗。それが浮遊感を作り出している。

そしてもう1本が最大の特徴であり武器。

彼がいなかったらここまでハマらなかった。

やっぱりこういうギターが好き。リバーブ掛かったファズサウンド。これぞシューゲイザー

だけど曲を全く邪魔しない。バランスがよく、その音が感情を揺さぶる。

そしてボーカルの透明感。淡いが故に儚げなその声は、慈雨の如く染み込んでいく。

優しくて青いメロディが聴く者を拒まない。

まさに時代に合った新しいシューゲイザーの形と言えよう。

 

絶望は希望だったりする。

夜明けは朝という光を連れてくる。

夕暮れは夜という闇を連れてくる。

二元性のこの世界において、相反するこの2つはイコールの存在。

光が絶望になることも、闇が希望になることもある。

破壊と創造がそうであるように。

ひとつ確かなのは、

ずっと夜にいたい僕とって、

夕暮れは希望を連れて来てくれるいいやつ。

クレナズムはいいバンド。