von

 

この世界が嫌いだ。

何もかもがどうしようもなく嫌いだ。

1番嫌いなのはそんな自分だ。

 

そんなクソみたいな人生の中で、

僕は彼らに出会えた。

奇跡的に。

 

最も聴き込んだバンド。

最も救われたバンド。

 

凛として時雨


彼らの音楽との出会いは、実はよく覚えていない。

いつの間にか隣にいて、気がついたら心の奥まで支配されていた。

ただ一つ言えることは、時雨と出会わなければ、僕はもうこの世にいない。


「僕は知らない 僕は見えない 僕は汚い 僕は消えたい」


この叫びと共に鳴る、ヒステリックなまでに哀しく歪んだテレキャスの音が、心に突き刺さって抜けない。


いつからだろう。

時雨を聴かないとよく眠れなくなったのは。

沈み込んだ感情が霧のように浮遊して、降り注ぐ雨が逆さまの空に落ちていくような感覚。

狂気と絶望、静寂と激情が、

自分では吐き出せない感情を吸い取ってくれる。

どうしようもない虚無感を埋めてくれる。

冷たいほど、スリリングであるほど、

鳴り止まない痛みを轟音でかき消してくれる。

頭の中まで見られている気がして、

理解してくれているような錯覚に陥る。

残酷なこの世界で、話を聞いてくれる唯一の友達のように思えた。


もう戻れないところまで来てしまった。

時雨の音でないと満たされない。

高密度で隙間のないあの音の中にずっと埋もれていたい。

そんな欲求に駆られる。

自分であの音を出してみようともした。

研究して、練習して、ライブの後は足元を見に行くのが癖になったりもした。

だが、何もかも足りない。何もかも違う。

偽物では物足りない。

本物でないと満たされない。


ライブは別次元。

静と動。0と1。無機質。そんな世界。

喉元にナイフを突きつけられているような張り詰めた空気の中、TKがデジディレイを踏むと、一瞬で彼の世界に吸い込まれる。

意識は浮遊しているのに、体は倍の重力を感じているような不思議な感覚。

冬の匂いが漂い、知らない街の夕景が脳裏に浮かぶ。

ピックが弦に触れた瞬間、鼓膜から脳に冷たい鉄の音が突き刺さる。このスピード感。

どれだけ歪んでも原音は潰れず、その冷たさを醸し出している。上も下も失うことなく、攻撃性を纏って解き放たれる。

345の地を這うような唸るベースは、重力に影響を与え、ピエール中野のテクニカルに暴れる難解なドラムは、空間の支配権を得る。

TKがガーゴイルを踏めば天地がひっくり返り、SPHを踏めば時空が歪む。

異世界への入り口があるとすれば、それはきっとあの人の足元にあるのではないかと思うほど、ステージからは異常な空間が一瞬にして押し寄せてくる。

3ピースの固定概念を破ったのは間違いなく彼らだ。

あのカオスにカオスを重ねた音源を、ここまで再現できるものだろうか。

そのテクニックもさることながら、彼らの激情は、音源を超え、無機質な世界を一変させる。

 

常識は通用しない。そんな概念は元々存在しなかったかのように。

圧倒的。この言葉の本当の意味を思い知る。

僕は動けない。立ち尽くすだけだ。

声も出ない。泣いてる暇もない。

息をすることすら忘れてしまう。

ただ瞬間的に、心の奥底に隠してしまっていた、誰にも届かなかった感情たちが、居ても立っても居られなくなり、ここぞとばかりに爆発する。

発狂、暴走、崩壊、破裂、正しい呼び方は分からないが、とにかくぶっ壊れる。

こうすることでしか吐き出せない感情が、今か今かと溢れ出す。

頭がおかしくなるほど溜め込んでいた、

怒り、哀しみ、苦しみ、寂しさ、虚しさ、

赤く染まった様々が、たった一夜で解放される。まるで嵐が通り過ぎたかのように。

彼らの音楽は、彼らが意図せずともその扉を開いてくれる。


そして終演。

虚無と絶望を描き切った果てに、轟音で弾き狂ったギターのフィードバックだけが鳴る。

狂気に満ちたその音には、孤独が隠れている。

この音が世界で最も優しい音だと、僕は知っている。

その残響音に、

まだ消えないでくれ、置いてかないでくれ、

もう少し、もう少しだけと、しがみつく自分がいる。

空っぽになる。

何も残らない。

残るのは耳鳴りだけ。

 

この耳鳴りがやけに愛おしい。

僕はこの耳鳴りを何よりも大切にしている。

 

耳に残るメロディなどいらない。

背中を押すようなありふれたメッセージなど必要ない。

怒りも哀しみも、虚無も焦燥も絶望も、

何もかも全てその轟音と激情で掻っ攫って、

たったひとつ、鼓膜にこの耳鳴りが残れば、

もうそれだけでいい。

あとは何もいらない。


喪失感が全て消えることはない。

何もできない無力さも。

変われない自分への苛立ちも。

眠っていた記憶に突如襲われる夜も。

明日が来ればまた、埋めてもらった穴にも隙間が空いて、少しずつ広がっていく。

その穴に落ちてしまって、登れそうにない時もある。

一瞬で何もかも嫌いになって、頭の中がグチャグチャなる時も、

殺したい記憶に支配されて、目の前が真っ暗になる時もある。

そして死にたくなる時も。


そんな時にこの耳鳴りが欲しくなる。

暗闇の中でしか見えないもの、それは小さな光なんじゃないか。

絶望の果てに眼に映るもの、それは小さな希望なんじゃないか。

そうであるなら、唯一残ってくれたこの耳鳴りは、希望の光みたいに思えてくる。


彼らの言葉を借りるなら、

それはとても「鮮やか」だ。


「奇跡が起きたら壊れるかな」

 

この世界が嫌いだ。

何もかもがどうしようもなく嫌いだ。

だから、

奇跡が起きたら、

好きになれるかな。

 

そんな小さな希望を信じて、

今日も生きてみる。

 

自殺願望vs知的好奇心 vol.1

 

「あけましておめでとう」

この言葉を素直に言えない俺は、捻くれているのだろうか。

いったい何がめでたいのか分からない。

またクソみたいな1年が始まることに、絶望しか感じない。

4月とかもそう。

はじまりを告げる匂いがどうしても好きになれない。

明日なんかやって来なければいい。

みんな死ねばいい。

そう願っても、明日はやって来るし、

死んでほしい奴は死なない。

だから自分が死んだほうが早いし楽だ。

でもなかなかその勇気が出ない。

ただひたすらに今日を終わらせて、

世界が終わる妄想をして眠る夜。

朝がやって来る前に死んでたらどれだけ幸せか。

だけど朝はやって来る。絶望を引き連れて。

 

生きることと死ぬこと

どっちが苦しいだろうか。

結局死ぬのだから、苦しみながら生きて、挙げ句の果てに苦しみながら死んでくのは、割りに合わないような気がする。

いっそのこと一瞬の苦しみで解放された方が、何十年と苦しみ続けるよりマシに思える。

生きていても良いことなんか何一つないのだから。

こんな甘ったれた幼稚な発言をすると、

目の前の幸せに気づけないのが悪い、

些細なことを幸せに思えないのが悪い、

とお利口さんが言ってきたりする。

 

人生について考え始めると、

命について考え出してしまい、

結局、死について考えている。

幸せとは何か分からず、

生きていることを当たり前だと思い込み、

恵まれている環境に気づけない。

それはただの贅沢だ。

 

命は尊いもの。

そう訴えるわりに、命の重さは平等には扱われない。

事件事故や災害で亡くなられた方には、憐んでお祈りするが、

電車に飛び込んだ人のことは罵る。

それは命を粗末にしたから。

そして他人に迷惑をかけたから。

でも迷惑をかけない死に方ってあるのかな。

迷惑をかけずに生きてる人っているのかな。

 

それでも自殺は間違っているとしよう。

そもそも世の中間違っていることだらけなのだが、

それはそうとして、

では、どう死ぬことが正しいのだろうか。

死の作法などあるのだろうか。

そんな教科書は見たことがないし、誰にも教わったことがない。

そもそも誰かに教わるようなことではない。

一般的に、天寿を全うして、家族に看取られながら安らかに永眠する、というのが理想だろう。

だがそれは理想だ。

大抵は長生きしてもガンや病気で苦しみながら死んでいく。

これから医療技術の発展に伴い、平均寿命は延び、老衰で死ぬ人も増えていくかもしれない。

だが、ただ長生きをすればいいのか。

それは果たして正しいことなのか。

 

寿命ってなんだろうか。

寿命って決まっているんだろうか。

決まっているのだとしたら、延ばすことなど可能なのだろうか。

日本での交通事故による死者数は、

2018年で3532人。

2019年で3215人。

減ってきてはいるものの、いきなり0になることはない。

つまり、推移的に見て、交通事故だけで、今年も約3000人の死者が出ることになる。

このことがすでに決まっているのだとしたら、

今年事故で死ぬ人は、もうすでに運命で決まっているのかもしれない。

選ばれてしまった3000人は、今どこで、何をして、何を思って生きているのだろうか。

やはり寿命というのは、すでに運命で決まっているのだろうか。

いつ息が絶えるのかも、

いつどこで事故に遭うのかも、

いつ何の病気になるのかも、

いつ誰に刺されるのかも、

いつ限界が来て首をくくるのかも、

全て運命に予め決められているのだろうか。

死に方すら決まっているのだとしたら、

正しい死に方など存在するのだろうか。

 

まあ、どうであれ、

いつか必ず死ぬ。

その「いつか」は明日かもしれないし、今日かもしれない。

それに少し期待している自分はやはり愚か者なのだろう。

どう死ぬかではなく、どう生きるかだと、世の成功者たちは言うが、

ご立派な正論も、捻くれた死にたがりには理解できない。

 

自殺は間違ってる。

それは分かってる。

間違ってると分かってても、

それを犯してしまうのが人間の弱さ。

間違いと分からないなら、それは愚かさ。

一生で一度も間違ったことない奴なんかいない。

だから、どう死ぬとか、どう生きるとかよく分からないけど、

今はなるべく間違えないようにしてみよう。

大きな目標としては、

ワンピースとコナンの結末を読むまでは、

なるべく。

それが現時点での人生の夢。

果たして自殺願望と知的好奇心はどちらが強いのか。

勝つのは、どっちだ。

 

続く。

 

ウェルテルと偏頭痛の苦悩

 

イタイ。このブログのタイトル。

なかなかの厨二病

 

この偏頭痛はきっと一生治らない。

タイトル考えてる時も頭痛くて、適当にこういうタイトルにした。

こういうのが黒歴史になる。

若い人は気をつけて。

まあ誰も見てない。

タイトルなんか何でもいい。変えられるし。

 

偏頭痛は現代病。

明日の気圧にビビりながら、ずつーる見て生きてる人どのくらいいるんだろ。

気にしすぎるのもよくないらしい。

でも頭痛ってなかなか分かってもらえない。

 

僕は頻繁に頭が痛くなる。酷い時は吐く。

眉間かその付近がズキズキ痛んで、大抵はしかめっ面で耐える。長年の独自研究の結果、熱冷まシート貼って葛根湯飲んで寝るのが一番マシになる。あくまで僕の場合。

気圧の関係なのかはイマイチよく分からない。雨の日はほぼ頭が痛い。だから雨は嫌い。その分、頭が痛くない時の雨はすごい好き。

 

頭が痛くても、職場では「頭痛くらいで」って思われる。100%思われる。

頭痛って誰でも起こる症状だから、皆それぞれ頭痛の辛さが分かる。

でも「分かる」からこそ、それぞれ個人の程度でしか「分からない」。

他人のことを理解しようとしても、完璧に理解することなど不可能。理解したつもりでも、残念ながらそれは想像でしかない。

互いに共通のものがあれば、良くも悪くもその物差しで測られてしまう。

 

だからどれだけ辛くても、「所詮頭痛でしょ?」で片付けられる。

「薬飲んだ?あげようか?」

と優しく言ってもらえたとしても、残念ながらその優しさじゃ頭痛はなかなか治らない。

市販の薬が効く人もいれば、酔い止めが効く人もいるし、何も効かない人もいる。それぞれ体質と症状と原因は違う。そんなの医者じゃないと分からない。

 

あまりに酷い時、休みもらって医者に診てもらったことがある。医者はあまり得意じゃない。仕方なしに嫌々行った。

 

MRIとやらで頭を撮ってもらった。

怖かったアレ。

まず撮る前に説明してくれるスタッフさん。淡々と説明文を読み上げるだけのあの機械的な声。

質問しても、その箇所の文を再度読み上げるだけ。目線が合うことは一生ない。

そして固定されて、動くなと言われ、ヤバくなったらコレを握り潰せと手渡される謎の形のスイッチ。

問題は狭くて暗い筒の中に入って行った後。

ピーガガガっていう音は分かる。

気になるのは、頭の奥の方で流れてるあまり聞いたことのない音楽。何アレ。

どこかの怪しい宗教施設を彷彿させるような音楽。知らないから偏見でしかないけど、さっきのスタッフのこともあり、イメージは完全にそうなわけ。アレが1番怖かった。もしあそこで寝たら確実に明晰夢見れる。そして戻って来れなくなる。

 

そんなこんなで、採血やら検尿やらいろいろ診てもらった結果、医者が言ったのは、

「偏頭痛ですね。」

うん、知ってる。

「原因は気圧かもしれないしストレスかもしれない。」

うん、知ってる。

「とりあえず薬出しとくからこれ飲んで、様子見てまた来てね」とお決まりのセリフ。

だから医者は苦手なんだ。

でも聞き逃さなかった。最後にこう言った。

「偏頭痛は動くと悪化するから、なるべく安静にね。」

さすがお医者さん、説得力が違う。

やっぱりお医者さんは凄い。人一倍勉強して、医科大出て、脳外科医になってる訳だから。

ネットに載ってる情報を当てにするより、お医者さんの言うことを信用するべき。

 

安静にするぞ。

お医者さんが言ってたんだから。

 

診察料1万払って、ちょっと高い薬貰って、というか買って、高いから効くだろうというプラシーボに期待しつつ飲んだ。でもこれも効いたり効かなかったり。

 

だって動いてるから。

仕事で動き回ってるから。

お医者さん確かに言ったよ、動くと悪化するって。

でも職場に言えないじゃん。動くと悪化するので休みますとか。

 

「薬貰ったんじゃないの?」

「というかただの偏頭痛なんでしょ?」

 

結局こうなる。

薬は貰ったんじゃなくて買ったんだっていう反論も出来ない。

 

体調が悪い時、総じて医者は休むのが一番だと言う。

でも社会は総じて、薬と気合いで何とかしろと言う。

 

結局のところ精神論。

病は気からという言葉もあるように、きっとそういうこと。

 

つまり「頭痛は甘え」だということ。

 

その場でぶっ倒れたり、ゲロ吐いたりすれば、少しはヤバいと思わせることが出来るかもしれない。でもそんなことしないよ。何とか耐えるよ。

気合いで何とかするのが社会人。

薬飲んで何とかするのが社会人。

そもそも体調管理は出来て当然。

それが常識。

我慢と忍耐が美徳の社会。

なんとご立派なことか。

 

だから僕は社会人失格。

忙しくて休めない人もたくさんいるのに。

医者に行きたくても行けないから、一生懸命ネットで調べて試行錯誤してる人もいるのに。

休み貰えて医者にも行けて、それだけで有難いというのに、何という甘えっぷり。

はいはい、そうだねー、辛かったねー。

誰かにそう言って欲しかったんだろうか。

幼稚。そりゃこんな厨二病にもなるわ。

 

頭痛は甘え。

気のせい。

 

僕はこんな社会が、とてもとても素晴らしいと思いますし、忍耐力が磨かれることで、個人の成ちょうにもつながり、もんだいをのりこえるためのかつりょくになるとおもっています。ですので、なんでもかんでも「あまえだ、ゆとりだ」と、しゅうきょうじみたせいしんろんをおしつけ、わかいひとのこころをこわしていくこのしゃかいが、いちびょうでもはやくほろびてほしいとおもっています。

 

 

頭痛え。

 

ブログ書いてみる

 

なんとなく。

なんとなく書いてみようと思った。

 

今までSNSとかやったことない。

ネットに何かを投稿したことがない。

ネットでは何か間違ったこと言えばすぐに叩かれる。

間違ってなくても、言い方ひとつで、少しでも世間様の鼻につけば寄ってたかってフルボッコ

 

そんなイメージ。

すげぇ怖いところ。

よく皆さん平気だなと。

人によっては顔出しまでして凄いなと。

メンタルの強さに憧れる。

 

最近ではユーチューバーも凄い。

職業としてはあれだけ馬鹿にされていたのに、トップの人たちは物凄く稼いでる。

今やいろんな人が始めてて、ビジネスの主流にもなってきてる。

 

時代は変わると思い知らされた。

"個"の時代って関さんも言ってた。

 

でも僕は変われなかった。

死にたがりもそうだし、SNS嫌いもそのひとつ。

やる意味がないと思ってた。

わざわざネットに書き込む必要性というのが分からなかった。

無駄な労力と時間を使ってスマホ依存症になるくらいなら、1分でも長く寝たほうがマシ。

ネットなんか2chのまとめ読めればそれで充分。

触らぬ神に祟りなし。

傍観者くらいが丁度いい。

 

じゃあ何でブログ始めたのか。

それはもう気の迷い。

血迷ってる。

自分でも分からない。

 

でもどこかに残そうと思った。

自分の思ったこととか、好きなものとか、人生観とか、そういうの。

どこでもいいから残しておこうっていう直感的な思考に従った結果、それがたまたまブログだった、ってだけ。

遺書みたいなもの。

 

そもそも誰も自分のことなど知らないし、興味もないし、読むはずが無い。

だからただの独り言。

 

死にたがりの溜め込んだ戯言を書いていく。

自分のために。

 

なるべく余計なことは言わないように気を付けよう。