自殺願望vs知的好奇心 vol.1
「あけましておめでとう」
この言葉を素直に言えない俺は、捻くれているのだろうか。
いったい何がめでたいのか分からない。
またクソみたいな1年が始まることに、絶望しか感じない。
4月とかもそう。
はじまりを告げる匂いがどうしても好きになれない。
明日なんかやって来なければいい。
みんな死ねばいい。
そう願っても、明日はやって来るし、
死んでほしい奴は死なない。
だから自分が死んだほうが早いし楽だ。
でもなかなかその勇気が出ない。
ただひたすらに今日を終わらせて、
世界が終わる妄想をして眠る夜。
朝がやって来る前に死んでたらどれだけ幸せか。
だけど朝はやって来る。絶望を引き連れて。
生きることと死ぬこと
どっちが苦しいだろうか。
結局死ぬのだから、苦しみながら生きて、挙げ句の果てに苦しみながら死んでくのは、割りに合わないような気がする。
いっそのこと一瞬の苦しみで解放された方が、何十年と苦しみ続けるよりマシに思える。
生きていても良いことなんか何一つないのだから。
こんな甘ったれた幼稚な発言をすると、
目の前の幸せに気づけないのが悪い、
些細なことを幸せに思えないのが悪い、
とお利口さんが言ってきたりする。
人生について考え始めると、
命について考え出してしまい、
結局、死について考えている。
幸せとは何か分からず、
生きていることを当たり前だと思い込み、
恵まれている環境に気づけない。
それはただの贅沢だ。
命は尊いもの。
そう訴えるわりに、命の重さは平等には扱われない。
事件事故や災害で亡くなられた方には、憐んでお祈りするが、
電車に飛び込んだ人のことは罵る。
それは命を粗末にしたから。
そして他人に迷惑をかけたから。
でも迷惑をかけない死に方ってあるのかな。
迷惑をかけずに生きてる人っているのかな。
それでも自殺は間違っているとしよう。
そもそも世の中間違っていることだらけなのだが、
それはそうとして、
では、どう死ぬことが正しいのだろうか。
死の作法などあるのだろうか。
そんな教科書は見たことがないし、誰にも教わったことがない。
そもそも誰かに教わるようなことではない。
一般的に、天寿を全うして、家族に看取られながら安らかに永眠する、というのが理想だろう。
だがそれは理想だ。
大抵は長生きしてもガンや病気で苦しみながら死んでいく。
これから医療技術の発展に伴い、平均寿命は延び、老衰で死ぬ人も増えていくかもしれない。
だが、ただ長生きをすればいいのか。
それは果たして正しいことなのか。
寿命ってなんだろうか。
寿命って決まっているんだろうか。
決まっているのだとしたら、延ばすことなど可能なのだろうか。
日本での交通事故による死者数は、
2018年で3532人。
2019年で3215人。
減ってきてはいるものの、いきなり0になることはない。
つまり、推移的に見て、交通事故だけで、今年も約3000人の死者が出ることになる。
このことがすでに決まっているのだとしたら、
今年事故で死ぬ人は、もうすでに運命で決まっているのかもしれない。
選ばれてしまった3000人は、今どこで、何をして、何を思って生きているのだろうか。
やはり寿命というのは、すでに運命で決まっているのだろうか。
いつ息が絶えるのかも、
いつどこで事故に遭うのかも、
いつ何の病気になるのかも、
いつ誰に刺されるのかも、
いつ限界が来て首をくくるのかも、
全て運命に予め決められているのだろうか。
死に方すら決まっているのだとしたら、
正しい死に方など存在するのだろうか。
まあ、どうであれ、
いつか必ず死ぬ。
その「いつか」は明日かもしれないし、今日かもしれない。
それに少し期待している自分はやはり愚か者なのだろう。
どう死ぬかではなく、どう生きるかだと、世の成功者たちは言うが、
ご立派な正論も、捻くれた死にたがりには理解できない。
自殺は間違ってる。
それは分かってる。
間違ってると分かってても、
それを犯してしまうのが人間の弱さ。
間違いと分からないなら、それは愚かさ。
一生で一度も間違ったことない奴なんかいない。
だから、どう死ぬとか、どう生きるとかよく分からないけど、
今はなるべく間違えないようにしてみよう。
大きな目標としては、
ワンピースとコナンの結末を読むまでは、
なるべく。
それが現時点での人生の夢。
果たして自殺願望と知的好奇心はどちらが強いのか。
勝つのは、どっちだ。
続く。